コミュニティ広場

エッセイ

沖縄の旅

フランス中世の文学(その2) 受講生 広島市中区 浜本雅之

~はじめに~

昨年12月11日から19日にかけて沖縄を旅した。過去2回の訪問は観光と出張であり、戦跡はあまり訪ねていない。第9条を中心とする憲法改正論議の高まり、普天間基地の辺野古移転問題の紛糾等の状況下、平和につながる自衛のありかたについて、すべての国民が改めて考えるべき時が到来しているといえよう。そこで、今なお戦争の影響が大きく残る沖縄について、戦跡を始めとして自分の目と足で確認しようと思ったのである。

1. 沖縄の戦跡

沖縄戦の特徴として次のことが挙げられよう。

  • ・沖縄は本土決戦までの時間稼ぎのための捨て石と位置付けられ、持久戦に備えて人工壕やガマといわれる自然洞窟が司令部、陣地、病院、県民の避難場所等に使われた。
  • ・「鉄の暴風」とも例えられた猛烈な艦砲射撃を受け、その後、本土で唯一の地上戦が行われた。
  • ・一般市民が多大の犠牲を強いられた。兵士や看護要員として動員されて死傷したほか、多くの県民が家族や家を失った。また、スパイを理由として、あるいは手榴弾を渡されるなどして、日本軍に直接・間接、殺された者も少なくない。

これらは自分なりの予備知識であったが、以下、訪問地の印象を摘記する。

〇 海軍司令部壕
豊見城の海軍司令部壕からは、大田実海軍少将の有名な訣別電(「・・沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」)が打たれ、壁には「神州不滅」等の文字が残されている。因みに同少将のご子息のうち一人は陸上自衛官、一人は反戦を訴える社会科教師となったそうだ。平和を考えるうえで、非常に象徴的なことに思われる。

〇 海軍司令部壕
南城市糸数のアブチラガマに置かれた南風原陸軍病院分室では、ひめゆり学徒隊が傷病兵の看護や弾薬・食料の運搬等に当たった。おにぎりも最後には一日一人当たりピンポン玉くらいの大きさしかなかった。ガイドに導かれヘッドランプを灯しながら真っ暗なガマを歩いていくと、傷病兵の呻声が聞こえてくるようである(脳症の兵士は隔離され女学生も立ち入りを禁止されていたという)。暗闇の足元の悪い中、時には体にそれを浴びながら兵士たちの糞尿を運び出すのも彼女たちの仕事であった。麻酔もない中、四肢の切断手術もなされた。ガマ近くの村出身のある軍医は連絡会議への出席要請を受け数日をガマの外で過ごした後、必ず戻るとの約束通りガマに帰り、ほどなくして自決した。南風原の陸軍病院壕では、いわゆる飯上げの道も通った。一回だけの追体験であったが、機銃掃射でどれだけの娘さんが命を落としたことか。特に沖縄戦の末期であろうが、ガマでは次のような悲劇が起きたこともよく知られている。

  • ・避難していた県民を後から来た日本兵が追い出す。
  • ・敵に聞こえると言われ、泣く子の口を押えて死に至らしめる。
  • ・白旗を挙げて壕を出て行こうとする県民を「貴様、スパイか」などと、日本兵が背後から撃つ。

本来、国民を守るべき軍隊にこれだけ殺されたところは、沖縄県以外にはなかろう。戦争はいずれも悲惨なものであるが、味方によってこうした犠牲が生じたことは沖縄の最大の悲劇である。飯上げの道のそばにある南風原文化センターには、ある県民の墓石のレプリカが展示され、そこに「日兵虐殺」とあった。日本兵に妻を殺された男性が刻んだものという。

〇 平和祈念公園 (摩文仁の丘)
公園内の各都道府県慰霊碑が立ち並ぶところを通り過ぎ、岬を降りていくと、最後の陸軍司令部がおかれた小さなガマに着く。牛島満司令官と長勇参謀長自決の地である。映画で見られた方も多かろう。今、沖縄県民に牛島司令官を恨む声は聞かれないという。結果的に県民に犠牲を強いたことにはなったが、硫黄島の栗林中将などと同じく、徹底抗戦を求められた牛島中将も戦争の犠牲者と受け止められているのであろうか。平和祈念資料館には多くの修学旅行生が訪れていた。「そんなにゆっくり見ていると遅くなるぞ。時間は20分しかないぞ。」入口付近で引率の先生の声がした。首里の防衛線も崩され日本軍も県民も南へ南へと追い詰められたが、現在、南部へはサンゴが含まれて白い舗装道路が緩やかな傾斜で続いている。負傷兵が這いながら南を目指したなどの記録もあるが、この程度の傾斜なら確かに這うことはできたであろう。機銃掃射の下を。

〇 安里52高地
地上戦は悲惨を極めた。ある米軍兵士は「ありとあらゆる地獄を見た」とのちに述懐した。戦闘神経症を発症する者も少なくなかった。ベトナム戦争などでも繰り返されているが、幸運にも五体満足で生還できたとしても苦しみが続くことになる。沖縄戦最大の激戦地といわれた安里52高地(米側呼称はシュガー・ローフ:摺鉢山) に登ったのはオスプレーが名護市沖に墜落して間もない頃であった。現在、丘の上は水道施設となっており、戦跡として訪ねるものも少ないようだ。上を見上げるとオスプレーであろうか、米軍の大型ヘリが飛んでいた。オスプレーの墜落記事について地元紙の沖縄タイムズ、琉球新報は一面と最終面の見開き全面を含め大きく報じていた。 今、この近くは那覇新都心といわれ、広大なエリアに美術館や博物館、新しいビルが立ち並んでいる。米軍基地が返還された所であるという。それでも、今でもどれだけの民地が接収されたままになっていることか。平和な光景も広がっているが、戦争がずっと尾を引き続けているのも沖縄である。

〇 前田高地・嘉数高地
浦添の前田高地は高さ約150メートル、浦添城があったところである。崖を這い上がる敵を迎え撃つ有利な地勢で激戦が繰り返されたが、ここでも戦車を始めとする圧倒的な物量には抗すべくもなかった。丘の上の一画は墓地となっていた。ご主人の命日にお参りに来たというご婦人にお会いした。海が好きだったので海の見えるところを選ばれたという。伝統的な亀甲墓を作るだけのスペースはなく、お墓は我々が日頃目にする程度の大きさであった。亀甲墓は守備にも利用された。そこに避難した県民の多くも亡くなった。火炎放射の中も生き延びたのであろうか、亀甲墓から助け出される幼児の写真が残されている。高地の戦いとしては戦車に対する決死の肉薄攻撃もなされた嘉数の戦いもあり、ここは二百三高地に匹敵する激戦地ともいわれている。丘への登り口には砲弾の跡が残る民家の壁が移設され、丘の上にはトーチカが保存されている。

〇 伊江島
伊江島は本部港(那覇から沖縄自動車道経由で2時間弱)から20分の所にある東西6km、南北3~4kmの島である。艦砲射撃、空襲、地上戦、集団自決を経験し、沖縄戦の縮図といわれる島である。昭和19年10月10日の十・十空襲(沖縄大空襲)の時にも、空襲を受けている。島の西端にあるニャティア洞には千人の島民が避難したといわれ、千人ガマとも呼ばれている。終戦後も二年間、2名の日本兵が潜伏したといわれるガジュマルの木もこの島にある。この日本兵は井上ひさしも戯曲の題材としている。潜伏兵と島民との交流があったかもしれない。

〇 対馬丸記念館
多くの子供が犠牲になった対馬丸遭難も忘れることができない。記念館が那覇市にある。敵の潜水艦等による攻撃は十分に予想できたが、沖縄に留まるよりはよかれと思っての疎開船(幾許かの船舶砲兵隊員も乗船)が魚雷攻撃を受けたのである。乗員数、犠牲者数とも正確な数字はわかっていないが、対馬丸記念館の「対馬丸に関する基礎データ(平成28年8月22日現在の氏名判明分)」によれば、総乗員数1788名のうち児童、一般を合わせた疎開者は1661名。犠牲者総数1482名のうち疎開者は1437名(そのうち児童は784名)と疎開者の9割近くが亡くなっている。因みに那覇市生まれの元カープ投手、安仁屋宗八氏の手記(平成29年1月26日中国新聞掲載)によれば、生後数か月の時、漁師であった父と祖父の漁船二艘に乗り、家族、親戚合わせ14~15人で大分県に疎開したそうである。日中は攻撃される恐れがあるので島影や洞窟に船を隠し、夜間に星を頼りに手漕ぎで航行したという命がけの逃避行であった。同様な脱出を試み、不首尾に終わったもので記録に残されていないものも少なくないのではなかろうか。

〇 戦争の記録
沖縄戦についての記録は数知れない。一つのインターネットサイトを紹介しておきたい。
http://www.okinawa-senshi.com/index.htm 日米の公刊戦史、戦闘詳報を渉猟し、各戦闘について地形図や写真を付しながら詳細に記述されている。著者は秋田県在住の水ノ江拓治氏。大変な力作である。これだけの労力を支えるものは平和への希求と何よりも沖縄戦の犠牲者に対する鎮魂の情であろう。詳しくはこれらに譲るとして、以前に読んだ書物の記述で最も印象的だったことを一つだけ挙げておこう。昭和21年の夏、物成のよい沖縄でも珍しい光景が見られたという。ここかしこで、直径が1m近くにもなるかぼちゃが生ったのだという。

2. 沖縄の史跡と文化

戦跡を巡る合間に世界遺産である城(ぐすく)と御嶽(うたき)を訪ねた。城の最大のものは首里城であるが、その他の城は城壁のみが残されている。古琉球の戦いと沖縄戦が重なるとき、人間の営みについて改めて感慨を覚えた。御嶽は神聖な祭祀の場。その空間に立った岡本太郎は「何もないことの眩暈」と表現したそうである。沖縄の家々にはシーサー(獅子の沖縄読み)が置いてある。また丁字路の突き当りなどに石敢當(せきかんとう、いしがんとう)と呼ばれる魔除けの石が置かれている。石敢當は中国に由来するといわれ、こうした風習からも大陸の影響が大きかったことが窺える。これらのお守りがこれからの沖縄を十分に守ってほしいと願わざるをえない。那覇の古書店では沖縄の言葉に関する本を数冊求めた。琉球方言には、「地方にこそ昔の言葉が残る」という柳田国男の説がよくあてはまることを知ったのも今回の収穫であった。例えば、美くしいの意の「ちゅら」は「清ら」に、「ぐすく」は「築く」に由来することを知った。沖縄といえば「はぶ」だが、これは蝮(はみ)あるいは蛇(へび)が転じたものとされる。因みにこの蝮(はみ)は蝮(まむし)の古称とされるが、中国地方などで結構今でも使われており興味深い。

~おわりに~

・大田実少将(死後、中将に昇進)の言葉は改めて銘記したい。平和を考えるためには戦争のことを忘れてはならない。病気を知らずして健康の本当の有難さはわからないのと同様である。辺野古を始めとする基地問題も、全国民が少将の言葉を基本に置いて考えたい。
・宿泊場所は那覇の国際通りに程近いところで、夜は近隣の市場や屋台も訪れた。初めて口にしたのは、アオブダイ、グルクン(タカサゴ)などの魚と山羊汁であった。平和の有難さをしみじみと感じながらのひと時であった。帰広して琉球古歌謡を集め沖縄の万葉集とも言われる「おもろさうし」を入手した。泡盛(シャムのラオ・ロン酒に由来するとされ、原料としてタイ米がよく使われている)のようにゆっくりと味わおうと思っている。(2017.2.26)

受講講座:「フランス中世の文学 その2」(2016.10.19~2017.2.1)

 

このページを閉じる