コミュニティ広場

講義ノート

なぜ「言語」に関心を寄せるのか

広島大学名誉教授・パリ大学文学博士 原野 昇

1. brotherとアニ/オトウト

英文He is my brother.を日本語に訳す場合、「彼は私のキョウダイです」という言い方もできるが、普通は「彼は私のアニです」か「彼は私のオトウトです」のどちらかを選ぶ方がより自然である。すなわち、「アニ」と「brother」も「オトウト」と「brother」も概念がぴったり一致してはいないし、「キョウダイ」は「アネ」も「イモウト」も指し得るので「brother」と全く同じ概念というわけではない。このように日本語の概念形成と英語のそれとはぴったり一致してはいない。

概念(単語の意味)というのは個々の相違を無視して、共通項に着目してくくったものと言うことができる。たとえば、大きい机、小さい机、丸い机、四角い机、木製の机、金属製の机、引出しのある机、畳の上で使う座机、といった個々の相違を無視(捨象)して、天板があり、脚があり、その上で人が読書や裁縫などの作業をする家具、という共通性を抜き出(抽象)して「机」の概念を作り上げている。その際には、どのように大きな相違を無視してもいいし、どのように小さな共通点に目をつけても構わない。それは各言語ごとに異なっており、初めから決められたものは何もない。先の「brother」と「アニ」を比較してみると、両言語とも、

 (1) 自分と同じように、同じお父さん、お母さんから生まれた者
 (2) 男性(「sister/アネ・イモウト」ではなく)

という特徴に目をつけて概念を形成しているという点は共通している。ところが日本語の「アニ」の方はさらに、

 (3) 自分より先に生まれた者

という特徴(生まれた順番)を概念形成の1要素としている。

このように言語によって、どのような共通点に着目して、すなわち別の言語話者にとってはどのように大きな相違点とみえる特徴を無視して概念を形成しているかは、外国語を学べばすぐにみえてくる。たとえば日本語では、「森にキが生えている」「この机はキでできている」と一つの単語「キ」で表現するが、英語では前者は「tree」、後者は「(made of) wood」と別の語で表す。日本語では「元は同じ」という共通項に目を向けている。逆に英語で「water」と一つの単語で表されるものも、日本語では「ミズ」、「ユ」と区別する。日本語では「温度」という要素が概念形成に加わっている。日本語では「イネ」「コメ」「ゴハン」と別の概念(単語)が形成されているが、フランス語では3者とも一つの概念のなかに含まれ、「リ riz」という一つの語で表される。フランス語では「チョウ」も「ガ」も同じ「パピヨン papillon」で表現される。虹の色は何色かと問えば日本人は「7色」と答えるが英語話者は「6色」と答える。ショナ語(アフリカの言語)話者は「4色」と答える。

「稲」 も 「米」 も 「ごはん」 も フランス語では 「リ riz」

人間を取り巻く世界、人間に見られている世界、たとえば「虹」という現象は同一である。それらは連続(たとえば「色」は光の屈折)、混沌、無形の塊、星雲状、無限であり、初めから概念(単語)を形成するために入れられている切れ目などは無く、それぞれの言語集団が勝手に切れ目を入れて概念(語)を形成しているに過ぎない。

2. 言語によって切れ目の入れ方が異なる

アラビア語ではラクダに関する語彙が、イヌイット語では雪や氷に関する語彙が豊富だと言われるように、言語集団ごとにある特定の意味分野の切れ目の入れ方の密度が濃く、したがってその分野の語彙が豊富になっている。どのような分野の語彙が豊富かを調べれば、その言語集団の地理的、自然的、歴史的、文化的環境・背景が浮かび上がってくる。そのための道具としてシソーラスという便利なものがある。一種の分類語彙表であり、類語辞典とよく似ているが、普通の辞典とは発想法が逆である。単語から出発して、その意味(概念)を記述するのではなく、その集団の人々が世界にどのような切れ目を入れ、単語にしているかが分かるように列挙したものである。たとえば、「自然界」の「気象現象」の「空から落ちてくる水(雨)」に関して、日本語ではどのような単語(概念)があるかが記述してある。それによると、「降り方からみた雨」として「小雨」「涙雨」「慈雨」「大雨」「豪雨」「夕立」など、「季節からみた雨」として、「春雨」「五月雨」「時雨」「氷雨」などがあげてある。これらをみれば日本人が自然現象としての「雨」について細かく切れ目を入れて語(概念)を形成していることが分かる。日本人の自然に対する心性が読み取れると言ってもいいだろう。

先の「アニ/オトウト」の例で言えば、日本語社会にあっては「自分より先に生まれた(目上)」か「後に生まれた(目下)」かが対人関係・行動に、すなわち言語活動においても大きな影響を及ぼしている証拠とみることもできる。「行く・来る」についても尊敬の気持ちを込めて「いらっしゃる」と言い、自らをへりくだって「まいります」と使い分けることにも共通する心性かも知れない。1人称、2人称の代名詞についても、英語では「I」「you」と一つずつであるのに対し、日本語では「私」「僕」「わし」「我」etc./「あなた」「君」「お前」「汝」etc.と非常に多くの語を使い分けている。自分より「目上」か「目下」かが常に意識されていると言ってもよい。

3. 日本人は日本語で世界をみているのか

今までみていた世界は日本語でみていた世界なのか。別の言語話者には世界が別様にみえているのか。そうすると日本人は日本語でしか考えることができないのだろうか。確かにそういう一面があることは否定できない。

しかし全面的にそうだというわけでもない。たとえば英語を学べば英語の「brother/sister」の概念、世界の切れ目の入れ方が理解できるし、新しく切れ目を入れて新しい概念(新語:「宇宙船」「スマホ」など)を形成することもできる。われわれの思考は先人の言語活動を乗り越えて、つねに更新していく。しかしそこには大いなる精神のエネルギーが注がれている。

われわれの日常の言語活動においては、そのようなエネルギーは省略して、習慣化、ルーチン化した、漫然とした反射的な発話も多い。その場合には、日本人は日本語で世界をみている、という状況に近いかも知れない。

このようにみてくると世界が違ってみえてくるのではないだろうか。そう考えた途端に「絶対」という語が消えていくのが分かる。外国語を学ぶ楽しみも増えてくる。日本語のシソーラスと別の言語のシソーラスとを比較して、それぞれの言語社会においてどのような領域(意味分野)の網の目が密になっているかを探るのも興味あることであろう。言語に興味をもつことはフィロロジーphilologyである。フィロロジーとは、「ことばlogos」を「愛するphilo」こと(愛言学)である。その言語(たとえば日本語)社会において、人々が為したこと、為していること、思考のあり方、認識のあり方、世界観、社会のあり方、歴史、文化などについて、ことばを通して考察することである。調べてみたいテーマは無尽にある。

「ことばのふしぎー言語学への招待」 担当講師 (2016.7.20 受理)

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